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2012.06.05 不顧後患
白文

呉王欲伐荊、告其左右日、「敢有諫者死。」舎人有少儒子者。欲諫不敢。即懐丸操弾、遊於後園。露其衣。如是者三旦。呉王日、「子来。何苦沾衣如此。」対日、「園中有樹。其上有蝉。蝉高居悲鳴飲露、不知蟷螂在其後也。蟷螂委身曲附、欲取蝉、而不知黄雀在其傍也。黄雀延頸、欲啄蟷螂、而不知蝉丸在其下也。此三者、皆務欲得其前利、而不顧其後之有患也。」呉王日、「善哉。」乃罷其兵。

書き下し文

呉王荊を伐たんと欲し、其の左右に告げて日はく、「敢へて諫むる者有らば死せん。」と。舎人に少儒子なる者有り。諫めんと欲して敢へてせず。即ち丸を懐き弾を操りて後園に遊ぶ。露其の衣を沾す。是くのごとき者三旦なり。呉王日はく、「子来たれ。何ぞ苦しみて衣を沾すこと此くのごとき。」と。対へて日はく、「園中に樹有り。其の上に蝉有り。蝉高居し悲鳴して露を飲み、蟷螂の其の後に在るを知らざるなり。蟷螂委身曲附し蝉を取らんと欲して、黄雀の其の傍らに在るを知らざるなり。黄雀頸を延べ蟷螂を啄まんと欲して、蝉丸の其の下に在るを知らざるなり。此の三者は皆務めて其の前利を得んと欲して、其の後ろの患へ有るを顧みざるなり。」と。呉王日はく、「善きかな。」と。乃ち其の兵を罷む。

現代語訳

呉王は荊を討とうとして、側近たちに告げて言うことには、「どうしても私を諌める者がいるならば、死ぬことになるだろう。」と。そば仕えの者に雑用をする少年がいた。少年は諌めようとしたが無理に諌めようとはしなかった。少年はそこで懐に弾き弓の弾を入れ、弾き弓を手に持って宮殿の裏庭で遊んでいた。露がその少年の衣をぬらした。このようなことが三日間毎朝続いた。呉王が言うことには、「お前、こっちへ来い。どうして不快な思いをしてのように衣をぬらしているのか。」と。少年が答えて言うことには、「裏庭の中に樹があります。その上に蝉がいます。蝉は高いところに止まり、高い声で鳴いて露を飲み、蟷螂が自分の後ろにいることに気がつかないのです。蟷螂は身をかがめて脚を縮め、蝉を取ろうとし、雀が自分のそばにいることに気がつかないのです。雀は頸を伸ばして蟷螂をついばもうとして、弾き弓の弾が自分の下にあるのに気がつかないのです。この三者は皆、ひたすら自分の目の前にある利益を得ようとし、自分の後ろに災いが迫っていることを顧みないのです。」と。呉王が言うことには、「よく言ってくれたなあ。」と。そこで、呉王は刑への攻撃をやめた。

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2012.02.12 性善
性善

白文
告子曰、「性猶湍水也。決諸東方、則東流、決諸西方、則西流。人性之無分於善不善也、猶水之無分於東西也。」孟子曰、「水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。人無有不善、水無有不下。今夫水、搏而躍之、可使過顙、激而行之、可使在山。是豈水之性哉。其勢則然也。人之可使為不善、其性亦猶是也。」

書き下し文
告子曰はく、「性は猶ほ湍水のごときなり。諸を東方に決すれば、則ち東流し、諸を西方に決すれば、則ち西流す。孟子曰はく、「水は信に東西を分かつこと無きも、上下を分かつこと無からんや。人の性の善不善を分かつ無きは、猶ほ水の東西を分かつ無きがごときなり。」と。人の性の善なるは、猶ほ水の下きに就くがごときなり。人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し。今夫れ水は、搏ちて之を躍らせば、顙を過ごさしむべく、激して之を行れば、山に在らしむべし。是れ豈に水の性ならんや。其の勢則ち然らしむるなり。人の不善を為さしむべきは、其の性も亦猶ほ是くのごとければなり。」と

現代語訳
告子が言うには、「人の本性は、渦巻いている水のようなものだ。東の堤防を切って落とせば東に流れ、西の堤防を切って落とせば西に流れる。人の本性が善と不善に分けられないのは、堤防を切って落とす前に、水が西に流れるか東に流れるかに分けられないのと同じようなものだ。」と。孟子が言うには、「水は、確かに堤防を切って落とす前から東と西のどちらに流れるかは決まっていないが、水が高い所から低い所へ流れないだろうか、いや低い所へ流れる。人の本性が善であるのは、水が低い所に流れるのと同じようなものだ。人が善でないことは無く、水か下に流れないことは無い。そもそも水は、もし水を手で打って跳ね返らせると、額を越えさせることも可能であり、水流をせき止めて逆流させると、山上に昇らせることも可能である。しかし、どうしてこれが水の本性といえるであろうか、いや言えない。外から加えた勢いこそがそう(水に額を越えさせたり山上に昇らたり)しているのである。人に不善なをさせることができるのは、人の本性が、水と同じく、外部の影響を受けるからである。」と。
原文

中納言参りたまひて、御扇奉らせたまふに、「隆家こそいみじき骨は得てはべれ。それをはらせて参らせむとするに、おぼろけの紙はえ張るまじければ、求めはべるなり。」と申したまふ。「いかやうにかある。」と問ひ聞こえさせたまへば、「すべていみじうはべり。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり。』となむ人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ。」と、言高くのたまへば、「さては、扇のにはあらで、海月のななり。」と、聞こゆれば、「これは隆家が言にしてむ。」とて、笑ひたまふ。かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一つな落としそ。」と言へば、いかがはせむ。

現代語訳
中納言隆家様が定子のいる所に参上なさって、中宮様に御扇を献上なさる時に、「私隆家は実にすばらしい骨を手に入れております。
それに紙を張らせたうえでさしあげようと思いますが、なみたいていの紙では張ることができそうにないので、素晴らしい骨に見合う素晴らしい紙をさがしております」と申しあげなさる。(中宮様は)「その扇の骨はどんなようすなのか」とおたずね申し上げなさると(隆家様は)「どこからどこまでもすばらしゅうございます。人々も『今までにまったく見たこともないくらい素晴らしい骨のありさまだ』と申し上げる。
ほんとうにこれほどの骨は見かけなかった」と声高くおっしゃるので、(わたくしは、)「それではそんなに珍しい骨なら、扇の骨ではなくて、くらげの骨であるようですね」と申しあげると、(隆家様は、)「これは隆家のいったしゃれにしてしまおう」といってお笑いになる。
こんなことは、にがにがしいことの中に入れてしまうべきことであるが、(周りの女房たちが、)「一つでも書きもらすな」というので、どうしようもない。
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