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1971年に卒業したあと、私は小さなグループの友人たちとバージニア州のアーリントンで寝室が3つある家に私たちの診療所を設立した。その後数年間、クリニックは何度も移転した。最初の数年は私たち全員にとって実験だった。患者を診察するとき、家族や友人、仕事、趣味を学ぶことに何時間も費やしたものだった。奉仕に対して支払いを求めたことは一度もなかった。
1979年に私たちはドイツ語で健康を意味する、「ゲズンハイト・インスティテュート」という名前を造り出した。翌年、ウェストバージニアの美しい田園地帯に310エーカーの土地を購入した。ここでなら、私たちの夢が本当に現実のものとなるだろう。
幸福な、楽しみや愛に満ちた共同体を作り出すことができるかもしれない。私たちのような家庭的な病院や診療所はどこの誰でも無料で開放されるのが当然だろう。こうした環境のときだけ患者は私たちの「健康とはたんに病気ではないというだけではない」という哲学を理解してくれるかもしれない。それは栄養、運動、趣味、自然、驚嘆、創造性、奉仕、平和に関わるものだ。個人の健康をその家族や社会や世界の健康と切り離すことはできない。ようするに健康は幸福に基づいているのである。
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医療制度は危機的状態にある。費用は抑制がきかず、医師と患者の関係が深刻な問題になっている。将来的にこの状況が改善されるのかどうか疑わしい。私はこれらの問題が互いに密接に関連していることに気付いた。感情を共有するという優れた医療のきわめて重要な部分が利益と同じくらい重要であるということはほとんど聞いたことがなかった。
最終学年中にいろいろ経験して私はこれらの問題をより深く理解し、その事は私の将来に強く影響した。研修の一環として貧しい人々のための無料診療所で働くことを選んだ。これこそ待ち望んでいた機会だった。やっと友情とユーモアのある私のやり方で医療を実践できた。ある日、赤いゴムの鼻をつけて職場へといった。うれしいことに、より簡単に患者との間に親しい友情と信頼が生まれた。利益を主たる目的と考えずに人を助けること。自分が働きたいのはこんな雰囲気の1つだと分かった。もし医療を改善する考えを持っているなら自分で実行しなければならないのだと悟った。
退院後、人を助ける職業に就きたがっている自分に気付いた。医療の職に決めた。3年間の医学部進学過程の勉強をした後、1967年にバージニア医科大学に入学した。
私をアメリカの医療制度に向き合わせたのは医大の研修だった。患者の健康状態に注意を集中させろと医師は言った。私は各患者の性格や生活習慣もよく知るようになることもまた重要ではないかと考えた。私は患者と親しく話をするのが好きで、よく彼らと冗談を言い合った。このことで私を非難する医師もいた。彼らは医師と患者との間に「職業上の距離」を保つべきだと言った。そのせいで教室にも病院にもほとんど楽しみがなかった。この制度を変えたかった。
医療がさらにビジネス化していることも大きな問題だった。多くの医師は患者に高額で不必要なことも多い検査を受けるように言い、多くの種類の薬を処方する。これは健康保険の費用の莫大な増加を引き起こし、今では3,000万人以上のアメリカ人が健康保険に入る余裕がない。

父の死の2、3ヵ月後、私はまだ大きな喪失感に苦しんでいた。胃が痛み始めたのは高校の最終学年の間のことだった。エックス線検査で胃潰瘍だと分かった。その年、2回入院した。
大学に入ってまもなく、高校の恋人のダナと分かれた。さらに私にとって新しい父親のようになっていたおじが自殺した。
すべての希望を失い、自殺することも考えた。母の助言で精神病院に入院した。そこに2週間いたことが人生の転機となった。
私の回復を一番助けてくれた人々は医師ではなく家族や友人、同室者のルーディだった。ルーディは3度離婚し15の職を転々とした。彼の人生は失敗と絶望に満ちていた。私にはよく見舞い客が訪れたが、ルーディに会いに来る者は誰もいなかった。人がそんなに深い孤独を経験することがあるとはほとんど想像もしなかった。私の苦痛など彼の苦痛に比べれば何でもないように思えた。
愛に囲まれていたのに、それを受け入れるために心を十分開いていなかったことに気付いたのはそのときだった。それは私の個人的な真実だった
私が16歳のとき父が急死した。父と2人きりで1週間すごした直後のことだった。母と弟が旅行で留守にしていて、そのとき父が私に突然アルバイトを数日休んでくれと頼んだ。私が成長期にあったとき、彼はほとんど家におらず、家にいるときはたいていいすに座ってお酒を飲んでいた。父が参加した戦争について話して欲しいと頼むといつも彼は泣き始めたものだった。
第2次世界大戦と朝鮮戦争が父の精神を破壊してしまった。朝鮮戦争中、彼の無二の友が手りゅう弾に覆いかぶさり父の命を救った。父はそのことでひどく罪の意識を感じていた。しかし一番の罪の意識は家族に関係するものだった。だから父はよい父ではなかったことを私に謝った。
やっと父と友達になった矢先、彼を失った。彼は心臓病と高血圧を患って第2次世界大戦から帰ってきた。私たちが父と子としてやっと仲良くなった1961年のその週末、彼は心臓発作を起こした。

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